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アラシの過去。出会いの物語。
乞う
父は、おれの憧れだった。
父がなんの仕事をしていたのか、今となっては朧気だ。
けれどよく自分で機械を作っては、自慢げに見せてくれる父の顔は誇らしいものだった。
大好きな父だった。優しく、けれど無邪気な人でもあったと思う。そんな父を優しく見守る母に、自分と同じように父が大好きであった兄に囲まれ、幸せな日々を過ごしていた。
だから、幼い自分には理解ができなかった。
――アラシ、逃げろ!
炎に包まれ笑う父、床に広がっている赤い液体、倒れる兄、そして
あなたは、いきて――――そう言って、自分を逃がした母。
ただ母の声に従って、走った。炎の熱から、父の狂った声から、傷ついた兄から、そして自分をかばって父に傷つけられたであろう母から。
もう壊れてしまった幸福から目を背けて、逃げるように走って、走って、走り続けて
――――そうして、おれはあの場所に行き着いた。
寒い。始めに感じたのは身体の震えだった。身体はすっかり冷え切ってしまっていた。
次に認識したのは、地面の硬さ。まるで床にそのまま転がっているように硬く、冷たく、さらに言えばざらざらとして気分が悪い。
不快感に耐えきれず、ゆっくりと目をあける。ぼやける視界にうつるのは……地面?
「……はぁ?!」
衝撃に一気に身体を跳ね起こす。床よりももっと悪い、地面に転がされていた。外で寝ていたなら寒いのも身体が冷え切っているのも当然だ。土埃が身体についていて気持ちが悪い。
「え、あ……?ここどこや……?」
起き抜けで回らない頭では理解が追いつかない。地面で寝ていたせいで身体の節々も痛いし、特に足だ。もう動かすのが億劫なほどに重い。
「おれはどうして、何を……?」
何を、したんだっけ。何が、あったんだっけ。
ぐるぐると気持ちだけが先走り、頭の中が気持ち悪い。
ぐちゃぐちゃな気持ちが、胸からせりあがってくるような、何かが、
「邪魔」
「ッうお!?!?」
突然の音に悲鳴を上げる。顔をあげればどうして気付かなかったのか、すぐ傍に人がいた。
深い森の色の髪をした、綺麗な顔をした少年だった。俺よりも少し幼いくらいか。けれどその幼さよりも、少年の目が、冷たくて暗い、紅い、赤い……??
赤、そう――炎、が――
「――――!!!!」
一気に記憶が戻ってくる。そうだ、おれは逃げてきた。
あの炎から、父から、すべてから。それで、ああ、どうして、どうすれば。
胸からせりあがってくるものに逆らわずに吐き出す。べしゃりと吐き出された黄色の液体の刺激臭に、さらにえづいてしまう。
吐しゃ物にまみれたおれに、少年はなにも言わなかった。ただ無言でしゃがみ込み、おれの顔をじっと覗き込んだ。その距離が近すぎて、思わず息をのむ。
あかい目が、俺の中の何かを探るみたいに、瞬きひとつせずこちらを見つめていた。
「…………」
「…………」
無言で見つめあう状況に、段々と頭が落ち着いてくるのを感じる。まだ気持ち悪いが、吐き気は少しずつ小さくなっていた。とりあえず、
「あの、ごめん……近い、かな」
少年は俺の言葉に、首を傾げる。正直吐いたのもあって近くに人がいるのはとても居た堪れない気持ちになるし、自分よりも幼い少年であればなおさらだ。
「えっと、俺は汚れてるから……ちょっと離れてくれる?」
少年は一歩身を引いたが、それでも近い。それに無言だ。何も話さないわりに、おれをずっと見ている。
果たしてこの少年は誰なのだろう。いやそもそもの話、おれはいったいどこに来てしまったんだ……?
わからないことだらけでめまいがする。けれどまずは
「……おれはアラシって言うんだ。わるいけど、水かなにかくれないか……?」
今のおれが頼れるのは、目の前の不思議な少年だけだ。
少年はおれのお願いに小さく頷き、
ばしゃん!
少しはなれば場所にあった瓶の中身を、おれにぶちまけた。
「………………」
ぽたぽたと髪から服から水滴が落ちていく。結構な量の水をぶちまけられたから当たり前だが、元々土埃に汚れていたのもあってさらに服が汚れて気持ちが悪い。犯人である少年は変わらず無表情におれを見つめて、いや心なしか何か……おれの気のせいかもしれないけれど、ほんの少しだけ楽しそうな……?
「……おれが汚れてるって言ったから水をかけてくれたのか?」
そう問えば、少年はこくりと頷く。そうか、そうか……ならおれの言い方が悪かったな……。
「……お水、ありがとう。ついでに口もゆすぎたいから、水を使える場所を教えてくれないか?」
少年はおれに背を向けて歩いていく。その手には先程おれに振り上げられた瓶を持っている。
つまりこれは、そういうことだな?
おれは慌てて立ち上がり少年の跡を追う。おれの予想が正しければ、水場に辿り着くだろう。
少年の跡は迷いなく道を進む。歩みが早くて地味にしんどいけれど、文句は言えない。細く暗い迷路のような道を何度も曲がり続けて、時には階段を下り、時には道とも言えない場所を通り抜けた先で少年は足を止めた。
そこは瓦礫にまみれた場所だった。元はそこそこ大きなビルか何かだったのかもしれないが、上層は大きく崩れ、壁も穴が開き配線がむき出しになっているような場所だった。
「……ここに水があるん?」
少年は何も言わない。おれをただ見つめるだけ。何となく試されているように感じた。この子はおれがどう動くのか、見ている……見定めている気がする。
少なくとも素直に水場については教えてくれない気がした。そしてその予想は正しいのだろう。少年は動く気配もなく、ただたおれを待っている。
――正直少年の言動が理解できなくていらいらする。けれどこの少年は悪いやつではないのだろう。そして自分がこの少年に見放されたらおしまいなのも、なんとなくわかっている。
大きく息を吸って深呼吸を一つ。埃と錆が蔓延する場所でせき込みそうになるけれど、少し昇っていた頭が冷えてくる。試されている?上等だ。
おれは生きないといけない。その為なら、少年の試練くらい軽くこなして見せる。
すぅ、はぁと大きく息を吸い込み、吐き出す。埃と錆の匂いしか感じられないそれを何度か続ける。少なくとも少年はここに水があると示している、なら俺にはそれがわかるはずだ。水を操る、水場で生きることを得意とする俺の――ワニノコの一族ならば、水の気配を感じられるはずだ。
そうして何度目かの吸い込みと吐き出しを行い――ほんの僅か、あまりいいとは言えない、けれども水分を含んだ空気の匂いを捉えた。
その匂いを忘れないように集中する。この匂いの元はどこだ?足を止めて、もう一度深く息を吸う。――あっちだ。匂いが消えないように、少しでも強く感じた場所へ向かっていく。いくつかの瓦礫を乗り越え、奥へ、壊れた残骸を押しのけて、奥へと進む。
瓦礫の隙間、小さな穴を潜り抜けるとはっきりと水の匂いがした。
「……あ、」
そこは崩壊が少ないのか天井があり、今までの場所よりも薄暗い。けれどそのお陰か埃っぽさは変わらないが錆や土の匂いは比較的少なかった。
ここまでくれば、ぽたぽたと流れる水の音も、その姿も見える。
「みず、だ……」
水だ。罅割れ折れた配管から、僅かにだが漏れ出しているそれに喉がうずく。声の擦れと喉の痛みに、想像以上に自分が渇いていたことを自覚した。
そっと両掌を差し出す。器のように翳された俺の手にぽたぽたと水が落ち、溜まっていく。
手の半分も溜まらないうちに口元へ、喉へ流し込む。水だ、水分だ。ほんと一口で飲み切れてしまうほんの僅かな量の水。綺麗とは言えないはずのそれが、何故だかとても美味しかった。
無我夢中で水を飲み、一通りの飢えが落ち着いてようやく周りに目を向けることができた。少年はいつの間にかおれの傍にいて、おれが水を飲み終わったのを見計らったようにことり、と水瓶を地面に置いた。慣れているのだろう、調節など必要ないというように水は瓶の中へと吸い込まれていく。
水瓶を手放した少年はおれを見て目を細めた。まるで満足したか?と問われているような目に頬が赤くなる。年下に無我夢中で水を求める姿を見られたことを恥ずかしく思う、けれどそれ以上に感謝の気持ちが強い。礼を、言わなければいけない。
「ありがとう、水場、教えてくれて」
赤い瞳が真っすぐにおれを見る。もうその目にあの炎を感じることはなかった。
水瓶にたっぷりと水が溜まっていることを確認し少年が水瓶を回収する。今にも水瓶から溢れそうなほどの水だ。……重くはないのだろうかと思うが、そんな俺の心配をよそに少年はすたすたとこの水場から立ち去っていく。瓦礫の隙間を縫うようにするすると進んでいるのに、水を零す気配がないのは流石だ。慣れているのだろう。
一方おれは少年の跡を追うことに必死で、おれに渡されていたら水瓶をひっくり返していたなに違いない。情けない話だ。
少年はこちらをみない。だが気にしてはいるのだろう、跡を追うおれには、少年の足が時々緩むことがわかる。
おれは口元を緩めた。おれの何か少年の興味を引いたのかわからない、けれど少年のわかりにくい優しさがおれには嬉しかった。
水場に来た時と同じように複雑な細い道を進んでいき、そうして少年の家――つまりはおれが行き倒れていた場所に辿り着いた。それと同時に、ぐるるるる、と大きな音。
少年が振り返る。
「…………」
「…………は、はは。すまん、安心して腹減ってきた」
知らない場所でずっと動いて、それでも見たことのある場所に戻って安心してしまったのか、腹の虫が大きく騒ぎ出す。水を沢山飲んだのだから少しは落ち着いてほしいと願うおれを無視して、おれの身体は空腹を訴えている。
なんとなく少年の赤い目がじっとりしているように見えて気まずい。腹を抑えて目を逸らすおれに、少年はため息をつき家の中へと入っていった……と思えばすぐに戻ってきた。
「……ん」
軽い声と共に投げられる青色の丸いものを受け止める。……知っているものよりは小ぶりだが、これはオレンのみだ。少年を見ればすでにオレンのみにかじりついている。
「ありがとう……いただきます」
あっと口を開き、きのみを含む。これほど小ぶりであれば一口で飲めてしまう。味わうように噛み締めて、少し顔を顰めた。
――味が薄い。オレン独特の複雑な味はあるものの、それ以上に水っぽさが強い。きのみが小さいことも合わせて、2,3度噛んで呑み込んだ。 少しだけ身体が楽になった気がする。けれども正直、全然腹にたまった感じがしない。……はっきり言って物足りない。
ちらりと少年を見ると、黙々と口を動かしていた。その顔には何も浮かんでいない。美味しいも不味いも、量に対する不満も見えなかった。
少年が咀嚼を終えて小さく喉を鳴らす。その果汁に濡れた少年の手すら美味しそうに見えて駄目だった。
「……わるい、もう少しもらえんか」
少年はおれの言葉に不思議そうに首を傾げている。なぜ、と問われているようだ。
「正直言うて、一つやと……足りん。その、そっちは一つで足りるん?」
少年はぱちぱちと瞬きし、不思議そうな顔を変えない。これは無理なお願いをしてしまったか。そう考えたが、少年は懐からもう二つオレンのみを取り出しおれによこしてきた。
「……ほんとうに、恩に着る」
少年はもうないというように手をひらひらさせる。年下の少年に無心してしまったことが情けなくて、それでも与えられたきのみを大切に味わうように腹に収めた。
日が沈み、あたりが暗くなっていく。もうすぐ冷たい時間がやってくる。これからどうすべきか、とりあえず昨日と同じようにここで寝てしまってもいいだろうか。いや昨日は気絶していたようなものだから、意識して地べたで眠れるかはわからないのだけれど。おれがそう悩んでいると、少年が家の扉を開いた。……開いて、待っている。
「……入ってええん?」
少年はちいさく頷き、早く入れと顎をしゃくる。何から何まで世話になりっぱなしすぎるな、おれ。少年の指示通り中に入れば、思っていたよりもマシな空間が広がっていた。
正直少年の家の外観はひどかった。ただのプレハブ小屋よりもぼろぼろな、壁は変色し屋根も辛うじて崩れていないような見た目だった。けれど以外にも中の空間はすっきりしていた。ぱっと目についたのは先程運んでいた水瓶、その横に袋がいくつか。奥にはぼろきれが転がっており、部屋の中央には何か黒い跡が残っている。
これはすっきりしているというより、物が少なすぎるのかもしれない。生きるための最低限以下のものしかないように感じられた。
ガタガタと少しの風で建物が揺れるが、少年は気にした様子もなくぼろきれの上に寝っ転がる。隣に腰掛けるのは忍びなくて、少し離れた場所に腰を下ろした。
身を隠せる場所というのは生き物にとって安心感を抱かせるのか、慣れない水汲みに、空腹が少し紛れたこともありどっと疲れが押し寄せてくる。段々と瞼が重くなり、逆らえない。完全に意識が落ちる前に、せめて少年にお礼を言わなければ。
「――――」
口を動かす。それが音になったかも確認できないまま、おれの意識は暗闇へと沈んでいった。
――ぱちり、となにかがはぜる音がする。その音は小さかったり、大きかったりとばらばらで、でもなんだか暖かくて強張っていた身体が緩んでいく。まだ重たい瞼を持ち上げれば、暗闇の中オレンジ色の光が躍っていた。
――炎、だ。
少しでも眠気がはれるように首を振る。部屋の真ん中で炎が躍っていた。近くにいた少年の顔が火の光に照らされ、その端正な顔が自分に向けられていることを知った。 熱気が空気を介して肌に伝わる。傷つけるわけじゃなく、ただあたためるだけの、熱。
「おれ、生きたい」
ぽろり、と言葉が零れた。
「なんもわからんことばっかで……ここも、生き方も……なんも、知らん」
おれのつたない言葉を、少年はただ聞いている。
「今日のことでようわかった……おれ、ここで独りでは生きていけん。おまえに、頼りっぱなしで……甘えてばっかで……」
喉がつっかえたように一度、言葉が途切れる。胸の内にあるものを、何とか言葉として吐き出していく。
「それでも、」
「それでもおれは、生きたい。生きなあかん。だから」
熱が、炎が揺らいている。おれの言葉を待つように、ゆらゆらと。揺らぎ続けている。
「だから……頼む」
「おれに――ここでの生き方を教えてくれ」
おれの言葉に少年は何も返さない。けれど炎は変わらず静かにおれを暖めていて、
きっと今夜この炎が絶えることはないだろうと、素直に思えた。